木物語8
わからないこと
父と会話した。父ばっかりの社会が大昔にあったなら、こういう論争をしては一族を治めていたんだろうか。
おれ、「わかる」って何回吠えた。押したら返ってくるように、自分で言った言葉からわかってないって心に響いてきて、だから「わかんねけど」「わかる」って重ねて、結局わかんねよ。黙る。父の、フィーリングでわかれというような発する声を聞く。だって60年生きてんだもん。負け。
わからない
知っている家系的な苦労が、あ、これ、氷山の一角を、しかも言伝でしか知らないんだ。実感にはわからないんだ。
それとともに逆方向にも伸びる理解。会社の上司や経理、目上の人が関わっている仕事がおそらく繊細なこと。その教養もすぐには培うことができるようなものではないこと。敬って然るべきことなのだろうっていうこと。
生きるって、大変だってこと。
大変じゃなくするには、そういう風になる工夫を自分でしていかなければならないこと。
祖父母、父、おまけに母、曾祖父母の苦労。
もっと飢饉的な時代のこと。
一般的に観て、おれは自分のやりたいことを考えるような暇はなくて、時間の限り励む必要があるのではないか、ということ。
少年老い易く学成り難し、一寸の光影軽んずべからず。一寸も気を緩められない状況のまさに、なのではないか。
同時に、いま、普通のなかに紛れ込ませてもらえているこれは、とても貴重なのでは。いっときいっときが、儚い幸福なのではないか。
おれは、自分に都合のよい話にして作っているのかもしれない、もっともらしく正当だと言って脚本を書いて、「カット!そこ違う、もっとこう」そんなわがままに溺れているのではないか。
客観的に考えると、中学まで祖父母に頼り、高校まで祖父と父に頼り、大学でも困った時は父に頼り、今でも父に頼り母にも頼っている。おれは何か還元しているのか。毎日の弁当と夕飯を担うことにしたとしても、当たり前なのかもしれない。家の掃除も当然の然りなのかもしれない。負担が嫌だから、頭から一瞬で消し去っていたけれど、そういうものなのかもしれない。都合がいいことのつなぎ合わせた世界を観ている。
ぜっんぜんわかっていないらしい。
自分で考えているつもりでも、まだ外から得る「これがいいでしょう」という脆い価値観に則っている。自分の芯から湧き出る潔さじゃなく。
尊いらしい。家も、会社の業務も。わからない他のことも。それにすべからく則れということではないけれど、確かに尊いらしい。短角的に感情的に計るのではなく、長い目で見て大切なことのように思える、あてずっぽうに察するところ。
この、わずかに見えるような差も、長い細かな積み重ねの差、培うのにはうんと時間のかかる教養。
自分の満や不満ではないんだよ、つらいだけ。無心な感知。道のままに。
どこにいても道に繋がってる。
全然、いまいるところ、すんごくすんごくセーフティ。
有難う。